「聴く」って本当に大事です。
「人が問題ではなく問題が問題なのである」
ナラティヴ・アプローチの創設者マイケル・ホワイトの言葉です。
そうは言ってもあの人が悪い、もしくは、こうなってしまったのは自分のせい・・・
という語りは多いのではないでしょうか。
ここに向き合うために必要なのが「聴く」ことです。
先日の出来事です。
私は、あるメールを書こうとしていたのですが、どうしても筆が進まない。1週間ほど逡巡していたのです。内容は、数年にわたって我々家族を悩ませていたある事柄について、一歩前に進めるためのメールです。でも、書いては閉じ、書いては閉じを繰り返し、この1週間ずっと下書きフォルダに残っている状態が続きました。
何故逡巡していたのかというと、ナラティヴを学び始めて頭にこのマイケルの言葉があるため、相手を責めるような文章は書きたくない。でも、責めたくなる自分を責めるのもなんか違う気もしています。だって起こった事柄はどう考えても怒りを伴うものだったから。
そんな私の物語を愚直に聴いていただく機会がありました。
聴き手の方には、私の感じていることを感じてもらっている気がしたし、時に目を真ん丸く見開いて反応もしてくれました。「内的照合枠」を共感的に聴いてもらうとは、こういう感覚なのではないか、と思えたのです。
そして、聴き手として響いてきたことから自分に影響された言葉として、「よく耐えてこられましたね」という認証の言葉も言ってくれた時に、ちょっと心が軽くなりました。
そうしたら、自分をもっと大切にしようと思えてきたんですね。
これが、傾聴の第一条件でいうところの「心理的な接触」のきっかけになった、ということかもしれません。
聴き手が、良い悪いではなく、私の主観を理解しようと努めてくれることが伝わっていくこと。
これまで「傾聴」は知っているつもりでした。でも、ナラティヴの眼を手に入れた後の「傾聴」はまた違ったものが見えてくる感じがとても興味深いです。
誰かを責めたところで何も生まれない。
だからといって自分に責めを負わせて、全員が自分を悪者にしてことを収めたとしても、収まってるのは一時的でしかありません。
結局どちらも、どこかで綻びが出来てしまうのです。
グループ・プロセスにおいても同様のことが言えると思っています。
誰も責められず傷つけないことを皆が大切にすることの大切さ。
皆んながこの場をより良い意味ある場にしたいという想いが、それを促進する原動力でもあります。
結果として、その場に集まった人々の凝集性は高まっていく。ここにファシリテーションの意義があるのでしょう。
逡巡している自分に一致してみたら、相手を責める言葉から違う言葉が生まれてきそう。「聴く」って本当に大事です。