組織的過失と心理的安全性

映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』を観てきました。
この映画は、東日本大震災の津波の犠牲になった石巻市立大川小学校の児童の遺族が、被災後から撮り始めた1000ギガバイトにも及ぶ膨大な映像データを素材にしたドキュメンタリー映画です。

あの日小学校という子どもを育む場で何が起きていたのか?

当事者の親御さんの眼が捉えたとてつもない映像データからこの映画は作られています。
もしかすると、津波の話、災害の話、子どもを持つ親の話、危機管理の話、と思うかもしれませんが。それは否。自分の身の回りで起きている「違和感の根っこ」を見つめ直す「所」に、この映画は私を運んでくれました。

この裁判では、画期的といわれた判決「平時からの組織的過失」が認められました。

この「組織的過失」とは、一体どこからやってくるのだろう?
そもそも「組織的過失」とは、何だろう?
その問いの答えとして、自分の中の違和感の根っこと紐づけて考えたひとつの仮説は「無関心」というモノの存在であり、それがその組織の中で人々に影響を及ぼした結果なのではないかと。

この映像には、恐らく真実を全て語りきっていない人々がいます。そしてそれに対する憤りを抑えることは正直難しい。でも、その人々全てみんなが同じではないはずで。
きっと、違和感を覚えた人もいたのではないだろうか・・・でも、その違和感を押し殺して沈黙を選択せざるを得なかった人もいたのかもしれない。
そもそも、見なかったことにしてしまえばいいと目を反らしてしまったかもしれない。
それが、その組織で起きていることに対して、自分自身を「無関心」の方向に仕向け、自分に折り合いをつけていたのかもしれない。
でも、残念ながらその声は聴かれるところには出てきていません。
その声を黙らせているモノは何だろう?「自己保身」「ごまかし」「逃げ」「言い訳」は、どこからやってくるのだろう?
もうひとつ。
人々が影響を受けていそうな社会的文化的背景は、「ことを荒立てるもんじゃない」という、一見お利口そうに見える暗黙の価値観。
それが、人々の声を黙らせてしまうし、声をあげるという権利を行使した自分自身に対しても、自分で自分を責めるという「所」に人々を追いやっていきます。

ナラティヴ・アプローチの眼で見てみると、「責任者たるもの誤りは犯さないもの、誤りは犯してはならないもの」という文化的社会的な無言の圧力からの影響を受けていると考えることが出来るかもしれません。
それが公開性公正性を阻んでしまうところにこの人たちを追い込んでいたのかもしれないのですが、わからないし、語られなければ見えてこない物語です。

「心理的安全性」という言葉がありますが、「組織的過失」は、まさに心理的安全性の欠如の結果引き起こされる。

組織に対する「無関心」が引き起こす悲劇を繰り返さないために何が出来るのでしょうか。
この悲劇から学んだことを「教訓」にするために、何が必要なのでしょうか。

そんなことをこの映画を通して話したくなっている私がいます。
責任を背負っていると自覚する方たち、是非観てみてください。
そして、語り合いましょう。